ビートルズがまだリヴァプールのキャバーン・クラブで演奏してた頃、彼らのマネジャーを希望してきたのは地元のレコード店経営者ブウライアン・エプスタインだった。

彼はロンドンのデッカ・レコードと契約するため62年、ビートルズに数曲演奏させた。しかし彼等の演奏編成が時代遅れという理由から契約には至らなかった。

気落ちしたブライアンとビートルズを救ったのはEMIのジョージ・マーティンだった。契約後、2ndシングルの「プリーズ・プリーズ・ミー」はあっという間に1位になった。

デッカの重役たちは大変後悔したが起死回生を狙って契約したのがローリング・ストーンズだった。
マイケル・ジャクソンが82年に発表した「スリラー」は発売から現在に至るまで6500万枚の売上が認められており、「史上最も売れたアルバム」とされている。
グラミーでの同時最多受賞も破られてない。

94年、そのマイケルが結婚相手に選んだのがエルヴィス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーだったということで世間が騒がないわけがなかった。
彼女は結婚歴があったことでマイケルはいきなり二児の父親になった。
しかし、関係は長続きせず96年に離婚。

後にリサ・マリーはニコラス・ケイジと結婚するものの3ヶ月で離婚している、、、。
ロサンゼルスの郊外に住む彼等は「サーフィン」という曲が音楽出版社に認められインディーズからシングルを発表出来た。

ビートルズが登場するまでNo.1グループの名をほしいままにできたが、
65年ビートルズの「ラバー・ソウル」を聴いたとき、ブライアン・ウィルソンはそれに刺激され名作「ペット・サウンド」を作ったが期待したほど売れなかった。

後に彼はドラッグと覚醒剤の多用により音楽活動に復帰するまでに約10年を要した。当時製作してた傑作「スマイル」はロック史上最も有名な未完成アルバムになった、、、。

2011年、ブライアン・ウィルソンはソロ名義で「スマイル」発表したがファンの間では賛否両論あるらしい、、、。
ロック・ミュージシャンにとって身近な兄妹から音楽を教わるというのはよくある話しである。そのまま一緒にバンドを組む兄妹もいる。

ザ・エヴァリー・ブラザーズはその美しいコーラスがビートルズにも影響を与え60年代に活躍した文字通りエヴァリー兄弟のデュオである。

ジョージ・ハリスンは妻との離婚が成立したとき、彼等の「バイ・バイ・ラブ」を歌詞を変えて歌った。

また、2013年にはグリーン・デイのビリーとノラ・ジョーンズが彼等が1958年に発表したアルバム「Songs Our Daddy Taught Us」にインスパイアされた作品「foreverly]をリリースしてる。
ザ・フーは60年代のロンドンの若者文化のひとつ、モッズのシンボル的存在として登場した。同時にロック・オペラを一般化したことでも有名である。

73年リリースの彼等の6作目のアルバム「四重人格」は唯一、ピート・タウンゼントが全曲書き下ろした作品である。60年代のイギリスを舞台に「モッズ」と「ロッカーズ」という若者文化の対立を軸に若者の疎外感を描いている。

このアルバムを元に79年に映画『さらば青春の光』は公開されたが、その結末は明確に示されず、解釈は視聴者に託されている。

ピート・タウンゼントはこのアルバムがザ・フーにとって最後の傑作だったと語ってる。
「ビートルズがやって来る ヤァ! ヤァ! ヤァ!」は
64年に全世界で公開され大ヒットした映画だ。

ザ・バーズは、この映画を観た若者達がその帰り道
に誕生させたことで有名である。

彼等は映画の中でビートルズのメンバーが使ってた楽器を手に入れ、
ボブ・ディランの作品を彼等なりのアイデアで演奏した。
そして生まれたのが名曲「ミスター・タンブリン・マン」だ。

フォークとビートルズの出会いが新しい扉を開いた瞬間だった。
1970年にビートルズが解散した後、
ジョンとヨーコはニューヨークで暮らしはじめた。

ヴェトナム戦争に反対していた彼は反戦活動を行う中でアンダーグラウンド
な政治活動家と付き合っていたためCIAやFBIから目を付けられ
悲惨な人生を送ったらしい。

80年、音楽活動を再開し「ダブル・ファンタジー」を発表した直後の
12月8日の夜、ダコタ・ハウスの前でマーク・チャップマンの銃弾に倒れた。
 ャップマンはその日の午後、「ダブル・ファンタジー」に
ジョン・レノンからサインをもらってた。
1966年、アンディ・ウォーホルは自身が企画したマルチメディア・イベントにデビュー前のヴェルヴェット・アンダーグラウンドに演奏を要請した。

その条件は、美人モデルとして知られてた「ニコ」
をメンバーに加えるものだった。

その結果、67年にウォーホルのプロデュースで生まれたのが
バナナのジャケットで有名な彼等の1stアルバム、
『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』である。

当時はそれほで売れなかったが、後にロックの歴史に残る名盤となった。
ザ・ドアーズのヴォーカリストとして67年にデビュー。
ヒット曲が続き人気グループになるものの、
スキャンダルな話題にもこと欠かなかった。

様々な騒動を起こしロック界では逮捕歴の王者とも呼ばれた。

71年、心臓麻痺で27歳の若さで他界。

ロックの伝説として語り継がれてる人物の一人である。
アンディ・ウォーホルは複製技術を使ったポップ・アートで人気の高かった人物で、キャンベルスープの缶詰、コカコーラの瓶の複製、有名人の肖像をシルクスクリーンで複写するなどの一連の作品で知られてた。

71年、ストーンズが名盤『スティッキー・フィンガーズ』を発表した時、ジャケットデザインを担当したのがアンディだった。
その時にレーベルの👅マークも担当した。

彼は後にストーンズの『ラブ・ユー・ライブ』のアルバムデザインも手がげてる。

今年の9月からは京都で『アンディ・ウォーホル展』開催とのことで今から楽しみです!
967年の3月、イギリスのフィンズベリー・パークにあるアストリアで
ジミ・ヘンドリックスはエクスペリエンスを率いて初めてイギリスツアーを開始した。

その初日、彼はライター用の燃料を使って初めてギターを燃やした。
その後も続け、ギターを壊したり、歯で弾いたりと、奇抜な演出を混えたライブで話題を提供し続けたが、
その輝きを放ったのは4年たらずの短い期間だった。

1970年、27歳の若さでこの世を去った。
ロック界の奇人変人のトップクラス。
64年、「ザ・ゼム」のヴォーカリストとしてデビュー。

67年、ソロに転向後、圧倒的な支持をえるが、偏屈として有名。
マスコミを徹底して嫌い、取材も無愛想。笑っただけで記事になるほど。

コンサートの途中でステージを去ることも。
長時間の飛行機旅行を嫌い、未だ来日公演を実現してない大物ミュージシャン。

こうしたエピソードに限りはないらしが、いずれも演奏することのみが全てだからだ。

今では、孤高のシンガー、ロック界の神話なんて呼ばれてるみたいです。